言葉の重みと知行合一
季節は啓蟄を過ぎました。
大地が暖まり冬眠していた虫たちが、春を感じ、塒(ルビ「ねぐら」)となっていた穴から出てくる頃のことだそうです。文字通り春の訪れを着実に感じる日々です。
さて、前回の拙稿では、発言者によってその言葉の重厚感に違いがあること、そしてその源泉となるものは現場での実践、すなわちプラグマティズムであるということを述べました。今回は、その実践について三つの視点で深掘りしていきます。
一つ目は当事者意識です。他人事として発言するか、自分事と捉えて発言するかによって言葉の重みは異なります。言葉を耳にする人たちは、相手の姿勢や心意気、語彙語調、雰囲気などから、他人事として考えているのか、親身になって考えているのかを敏感に察知します。国会中継などで、官僚がつくった文章を大臣が棒読みしているだけだったりしますと、見ていて軽々しく思えます。一方で、どんな発言であれ、心がこもった言葉は表現が下手であっても稚拙であっても相手には伝わるものです。
二つ目は、発言に対して、責任を負っているかどうかという視点です。無責任な発言というものに重みはありません。責任を負っている発言には自ずと責任の重さの分だけ言葉にも重みが出てくるものです。「責任を持ってやります」という言葉をしばしば聞きますが、それが本当かどうか、過去の言動や物事に対する姿勢から相手には直ぐに伝わってしまうのです。
最後に、三つ目は自らが汗をかいているか、すなわち行動を伴っているかという視点です。口だけで話していることと、発言が行動を伴っているものとでは、言葉の重みは違ってきます。自分は何も行動をしていないのに、人に対して「やれやれ」と言っているような人を見かけることがありますが、それは大変残念な姿です。自らが汗をかき、やるべきことをやった上で発言することと、やるべきことをやらずに口先だけで話すことは、言葉の重みに大きな差を生じさせます。
自分事とする、責任を追う、現場で汗をかく。これらの三つに共通することは、陽明学の基本的思想の一つである知行合一、すなわち知識と行為は一体であり、本当の知識は実践を伴わなければならないということです。知行合一は吉田松陰が興した松下村塾に掲げられている言葉としても有名です。私自身もまだまだ知行合一には程遠い現状ではありますが、日々意識して参りたいものです。
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