感情の高まりと観見二眼「一歩離れて俯瞰する」
事実と感情を分けて認識することを考えています。
前回は、批判をされたり、逆に他者を非難する気持ちになったり、自己弁護をしたくなったりしたときなど、自分の感情がマイナスに働いてしまうときに、どうすべきかということを述べました。
私なりの結論としては、「そっと静かに自分の反応を認識する」ということに尽きます。外部に対して自分の反応を過度に発することなく、逆に「怒ることは見苦しいことだ」「取り乱すことは見苦しいことだ」と自分の感情を過度に抑制することとも異なります。
「自分は憤りを感じつつある」「動揺を感じつつある」という心のゆらぎを静かに見つめることで、心のざわつきは静まっていきます。
このことは、起こった出来事をどう解釈するかということともいえます。
憤りや怒り、嘆きなど、心の中に湧き上がってくる荒くなった感情については、表層意識で使命感や役割にかられて「鎮めよう」としても、決してそうなることはありません。むしろ、意識すればするほど、強まってしまうという経験が誰にでもあるのではないでしょうか。また、捨て去ろう、忘れようと懸命につとめたとしても、決してなくなることはありません。そうした抑圧によって一時は解決をしたようにみえても、しばらくすると必ず姿や形を変えて目の前に現れてきます。
ここで思い出されるのは、宮本武蔵『五輪書』にある「観見二眼」です。「観の目強く、見の目弱く、遠き所をちかく見、近き所を遠く見る事、兵法の専也」という解説が有名です。
目の前に起こったことに過度に反応せず、静かに解釈をするということ、心のゆらぎというものを静かに見つめるということは、この観見二眼が近いように考えられます。
同じくこの『五輪書』「木を見て森を見ず」という言葉もあります。森を構成する要素の一つである木にこだわり過ぎるがあまり、森という全体の姿が見えなくなるというたとえです。ある特定のものを見るのではなく、それとなく全体を見るということです。
自分の心を静かに見つめる。そのことによって、起こった出来事を静かに認識し、自分の中で勝手に解釈を変えてしまうことを避けることができます。目の前に起きたことを認識しつつも、もう一人の静かな自分がそれを俯瞰している。物事を直視しつつも、それを一歩離れた自分が俯瞰しているという見方を意識されてみてはいかがでしょうか。