人の心に思いもよらない感動を起こす手立てこそ、本当は花と呼べるもの/『風姿花伝』読書会を開催しました

致知&木鶏会、読書会

加藤滋樹です。

日頃お世話になっている方々と致知出版社から発刊されている『風姿花伝』(世阿弥、現代語訳:夏川賀央)の読書会を開催しました。

「一流とは何か」
「相手があってこその自分」
「人間という存在そのものへの圧倒的な優しさ」
「道を極めるということ」
「幸せというものは自他との関係性によって理解される」
等々、同じ書物を読みながらも、さまざまな角度から感想を共有することができました。

ご参加いただいた皆様ありがとうございました。

以下に小生の感想文を転載いたします。ご覧いただけましたら幸いです。

芸の奥義とはなにか。誤解を恐れず、小生なりの要旨をいうならば、それは「相手の立場にたつということ」という一言になる。本書を読んだ感想です。

『風姿花伝』は、現代社会において何らかの価値を提供している私たちすべてに当てはまる興味深い内容でした。

はじめに、猿楽を業とするものが、それぞれの年代において気をつけるべきことが書いてありました。若い年代のときは、それ自体が花になるということは、まさに小生が20代の頃に感じていたことです。少し一生懸命やっていれば、皆が可愛がってくれ、贔屓にしてくれる年代でした。しかしながら、ある時を境に、本質が伴っていなければ、といってもまだまだ未熟でしたが・・・、誰も相手にしてくれないという事実に気づきました。「若いからこそいただける、実力以上の評価」の時代に、しっかりと自己を高めて行くことが大切でした。本書では十七、十八歳の頃の「心得」と書かれているように、自らが定めたことを一生をかけて完遂しなければならいことにも大いに共感しました。

また、昼と夜に行う能では観客をとらえる方法に違いがあること、観客や場所、主催者と融合することも勉強になりました。私たちは画一的に通用することに安易に逃げてしまいますが、基礎的、普遍的なところは大切にしながらも、時と場合、相手に合わせて、「mobility career でよかった」「加藤滋樹でよかった」と思っていただける応接を心掛けたいものです。

「奥義を極めた者」についての記述も勉強になりました。奥義を極めた者は、たとえ老木になったとしても、「花を咲かせ続けることができる」といいます。因果の花を悟るということ、これが極意です。中村天風に「撒いた通りの花が咲く」ということばがありますが、自戒を込めて、まさにその通りだと思いました。関連して、能における感動を「花」に例える理由についても、興味深く読み入りました。「花というものは、あらゆる草木において、四季の折節で咲くものです。そのときどきでつねに新鮮な感動を呼ぶから、私たちは花を愛する」とありました。猿楽も花に同じ。人々の心に新鮮な感動をもたらすからこそ、面白いという心を引き起こします。「花を愛する気持ち」「面白いという感情」「新鮮な感動」という三つは全て同じ心から発するものです。

最後に紹介したいメッセージは、「秘すれば花」です。「人の心に思いもよらない感動を起こす手立てこそ、本当は花と呼べるもの」なのです。「敵が何も注意していなかったら自分が勝つのは簡単」とあるように、「油断をさせて勝つ」ということは、相手が何も知らないという意味であり、それが「我が家の秘事」というものです。舞台裏のような心遣いや時々の配慮を秘し「ただその時に求められるもの」を提供することが花であるということでした。

私たち得てして、自分たちが提供したいものを発してしまいがちですが、初心にかえり、相手が必要としていること、相手が悩んでいること、そのようなことにお役に立てる存在であり続けようと改めて決意しました。

当社コラムをご覧いただきありがとうございました。
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