量質転化「原典から考える」
桜の開花の報が聞かれる時期となりました。この季節はいつも私たちの心を前向きな気持ちにしてくれます。
前回は、質が変化するまで量をこなす「量質転化」について紹介しました。量質転化について、ヘーゲルは著作である『小倫理学』を中心に述べています。本日は、良質転化について取り上げたいと思いますが、原文の紹介だけでは分かりづらい部分もありますので、私なりに少し補足しつつ三つのエピソードを引用します。
一つ目は水です。水の温度という数値的な量の変化は一見すると独立した存在に見えます。しかしながら、この温度の変化が一定の値である沸点(100℃)に達すると「水から水蒸気へ」という質的な変化をもたらします。このことに加えて、水から蒸気に質が変化する際、体積は実に1,700倍にもなります。つまり、質だけでなく量にも大きな変化をもたらします。
二つ目は、古来からいわれているロバのエピソードです。元気に荷物を乗せて歩いているロバの荷台に、1オンスずつの荷物を足していくと、ある一定の重量になったときに、突如としてロバは歩けなくなり、そして倒れてしまいます。ここにおいても量の上昇にともない、質としての驢馬の運搬能力が欠如し変化してしまうということになります。
三つ目はある大国の領土と人口の問題です。広大な領土と多数の人口を併せ持つ国があったとします。数平方メートルの領土や数百人の人口の増減は、その国の政治体制、統治体制影響を与えることはないのは明らかであるものの、もし、一層その国の領土や人口が拡大もしくは縮小していくならば、いずれの段階かにおいて、その国の憲法の質が変化せずにはいられないという点が訪れてきます。
ヘーゲルは、「こうした例え話を空論的な無駄話と言う人がいるのならば、それは大きな間違いである。なぜなら、ここには、それを知ることが実践および倫理に対して非常に重要な意義を持っている思想が含まれている」と述べることで、良質転化に言及しています。
最後に、今回の含意についてまとめます。物事が変容していくためには閾値(ルビ・しきいち)があり、それを超えるまで地道に数を積み重ねられるかどうかが問われています。難題なのは、超えてみるまでは「どこが閾値であったのか」が分からないことです。しかしながら、私たちリーダーこそが、その閾値を超えていくために、日々、努力を続ける必要があるといえます。